【雑誌記事再掲】新作落語の雄によるハイリスク&ノーガードの落語論

今さらながら、三遊亭円丈という落語家がいる。特徴は黒フレームのメガネにワッペンをつけた着物。四〇年近くもの間、落語界では冷遇されていた新作落語をバリバリ作り続け、今や花形の春風亭昇太柳家喬太郎らに影響を与えた開拓者だ。

今年の五月、円丈は弟子である三遊亭白鳥と親子会を開いた。白鳥は無手勝流フォームから剛球のギャグをど真ん中に放り込む、笑いの量と良識派からの批判では当世トップクラスの落語家。そんなコンディション抜群の弟子に対し、普通の師匠であれば「あいつは最近ウケてるようだけど、落語はそれだけじゃないからネ」と言わんばかりに抹香臭い古典を披露し、軽くいなすのが定番である。しかし円丈は違った。自分が弟子よりも面白いことを誇示すべく、白鳥による「時そば」の改作落語「トキそば」を、さらに「ウォーキングそば」にアレンジしてぶつけたのである。何がどうして「トキ」が「ウォーキング」になったのか、今となっては思い出せない。なぜなら六四歳の円丈は噺がどうにもおぼつかず、中盤、反応の悪さに心が折れると「これは失敗だ!」と見切り、もろもろを端折って撤収したからだ。いわゆる師匠クラスで、こんな挑戦的にスベってる人を初めて見た。

その円丈が満を持して出版した落語論が『ろんだいえん』(彩流社)である。その主張を一言でまとめるなら、「新作落語古典落語」。ページをめくれば「古典落語しかできない噺家はただのアクター。ランクとしては最低」「古典落語は財産を食いつぶすだけの放蕩息子」「円丈はもう古典落語で三十年笑っていない」などなど、保守の牙城である落語地帯で、紛争必至の持論を暴発させている。

なぜ円丈はそこまで古典落語をこきおろすのか。その心性を凝縮してる一文が、「毎年、三つの古典落語が枯れ、地球上から消失している」であろう。一般の噺家古典落語を永遠に運用可能な共有財産と思いこんでいるが、<今>と対峙しようとする円丈にとって、そんな恒久感は幻想でしかない。落語の笑いもM-1の漫才同様、完成後は年を追うごとに目減りしていく有限の預金なのである。だから円丈は自分で新作を創る。どんな芸達者だろうと創作を諦めた同業者を禁治産者扱いする。“運用”が讃えられる世界で“造幣”を目論む革命児が、犯罪者予備軍のように疎まれるのは仕方ないことだ。

噺家の符丁でウケないことを「客に蹴られる」というが、私は円丈が蹴られる姿を見たことがない。なぜならスベる時は蹴られて背中から倒れるのではなく、トペ・スイシーダのように頭から突っ込んで砕けているから。遺言と称した本書でも、「前のめりで死ぬ」「攻めて攻めて、攻め抜いて死にたい!」とハイリスク&ノーガードで吼えまくる円丈。客席へダイブして死ぬ姿しか思い浮かばない。