塀の中に埋められた懲りない面々

安部譲二『日本怪死人列伝』を読む。
戦後の日本史において迷宮入りになった12の怪死事件に、我らがジョージ・A・ベッシュが迫る内容。しかし証拠や証言を積み重ねて真相に肉薄する堅実きわまりない手法をジョージが使うはずもなく、ほとんど取材しないわがままジュリエットぶりで当時の資料を紐解いては真犯人をビシバシ断罪してしまうのだった。
そしてこの本のキモは真相が正しいかどうかではなく、いちいちジョージが強調する“事件当事者との関わり”にある。田宮二郎とは面識があり、新井将敬は飲み仲間。力道山の刺殺犯は府中刑務所のクラスメートで、下山事件の下山総裁にいたっては父親の盟友という顔の広さだ。アンダーグラウンド名刺(片方の側面が剃刀)をいったい何枚持っているのか。推理する視座というか、もはや全然座ってない。常に中腰で木刀持ってモノを考えている。
また当人と接点がない場合、ジョージは想像力をルーレットマンの速度でフル回転。日航機墜落事件ならパーサーだった知識を引っ張り出し、尾崎豊の死はシャブリストの先人としてレインボーきわまりない経験談をぶちまける。尾崎がトイレでシャブを打つ描写なんて、妄想だけで8ページ。童貞が文通相手に注ぎ込む以上のパワーだ。
そんな血肉の記憶だけが推論の根拠という本書の中で、特に心も身元も洗われるのは朝日新聞阪神支局襲撃のくだり。犯人が腰だめで散弾銃を撃ったと主張するジョージは、自らの思い出をこう回想する。
「昭和49年に私は、ブラジルとボリビアの国境地帯で、密林の中を百キロほど徒歩で移動しなければならない事情があった」
もう誰もそれがどんな事情かすら聞かない。きっとドラゴンボールでも探していたのだと思う。