これからの梅雨はワイパーを眺めて三沢を思い出す

やっぱり三沢光晴の死を受け入れがたい今、映画『レスラー』を見てきた。別に映画を多角的に語る才能はないので、プロレス好きだけ読んでもらえれば。
主人公のレスラー・ランディが一線で活躍したのは、それを演じるミッキー・ローク同様、80年代のこと。今やボロボロの体をひきずってインディーでドサを回るランディは、場末のストリッパーと大好きなハードッロックを聴きながら「80年代は最高だった」と盛り上がる。「ガンズアンドローゼス、モトリー・クルーデフ・レパード・・・それからニルヴァーナが出てきたんだ。90年代はクソったれだぜ!」
そんなランディのフィニッシュホールドは、フライングボディプレスなのかダイビングヘッドバッドなのかいまひとつ判然としない「ラム・ジャム」という技だ。そのトップロープで腕を広げる姿、さらに背に掘り抜かれた主のタトゥーから、町山智浩はランディがキリストに見えると表現する。敵の攻撃を全て受け抜く姿勢を含めて。(町山文体)
実際にランディだけでなく多くのプロレスラーにとって80年代が”至福の時”だったわけだが、プロレスに目覚めたのが遅かった私にとって、黄金期は90年代に訪れた。四天王プロレスにシビれて、G1クライマックス開催中は星取表に目を凝らして、週刊プロレスを隅から隅まで読んだ。私は「G1とチャンピオンシップだけはガチ」と信じてやまないおめでたい人間だったので、プロレスに対する清い忠誠はミスター高橋本が現れる21世紀まで続く。ランディがキリストであるように、90年代、私の中でプロレスラーは人間ではなくて神様だった。
そうした背景があったので『レスラー』を見ながら、ランディに三沢を投影してしまうかも・・・と思っていたら、二人は全く似ていなかった。ランディはバッキバキのハードコア路線だし、約束を守らないし、過去の栄光にすがってるし、『オールナイトニッポン』のパーソナリティを務めて2時間下ネタで乗り切らないし、川田と小橋と組んで日テレの歌番組で少年隊の歌を歌わないし。でも満身創痍になってリングに上がる、たったその一点だけでランディと三沢はシンクロしてしまう。バッドコンディションでも「俺の居場所はリングにある」とコメントすると、トップロープからダイブし、対戦相手にラム・ジャムでアタックするランディ(フミ・サイトー文体)。あの跳躍は三沢のフライングボディプレスにしか見えなかった。
盲信が解けてあの頃の熱を失ってしまった今、私はプロレスラーが普通の人間に見える。でもランディも三沢も神様と思えた時が一瞬でもあった。それだけで十分である。本当にそれだけで十分なんだ。全てのプロレス者に『レスラー』をおすすめします。