CDをかけると能書きしか流れない渋谷陽一系音楽

烏賀陽弘道『Jポップとは何か』(岩波新書)を読む。90年代以降の音楽シーンを”消費”の視点からすくい上げた好著だ。
そこで渋谷系音楽の話から派生して、いかにしてパルコが渋谷に定着していったかの経緯が綴られている。70年代は住宅街だった渋谷。しかしセゾングループが何もなかった区役所通りの坂上周辺に複数のパルコをオープンさせると、さまざまな情報発信を行い、一帯を消費都市へと変貌させたのである。
その話で私が興味を惹かれたのは、オープン時の広告コピー「すれ違う人が美しい 渋谷=公園通り」だ。今にしてみれば古臭さを感じるセンテンスだとしても、この言葉がよるべない存在だったパルコを一つの土地に根付かせる力を持っていたことは疑いようがない。
さて十数年前のこと。神奈川・第二の都市として名高い、美しい相模川が走るアジアのヴェネツィア、城下町の人情が優しい小京都・海老名で市主導の駅前開発が進んでいた。海老名駅周辺にVINA(ヴィナ)というファッションビルを、なんと6つも建てる壮大な計画である。海老名だからヴィナ。海老名を通学の接続駅として利用していた私ですら思った。なんという安直なネーミングだろうと。相模原だったらフェラか。しかし誰もが街の発展を望み、文句の一つも言わなかった。
そして市民の期待がはちきれんばかりになった頃、VINA1(ヴィナ・ワン)はオープンする。ビルの屋上から吊るされた垂れ幕には満を持して放たれたコピーが。そこに書かれていた文字を私は今でもはっきり思い出せる。
「楽しまネバーランド
市の命運を賭けた駅前開発。さまざまな思惑を背負い込んだコピーが「楽しまネバーランド」。垂れ幕が風にそよぎ、その影からピーターパンとウェンディが逃げ出す幻影が見えた。
結局、計画は途中で頓挫。VINAは2号館以降増えることはなく、海老名駅前に佇む店舗はサティとダイエーと甘太郎だけになり、相模川の水は涸れ、城は燃え、街を暗黒の飢饉が襲った。言葉は歴史を作る。という締めなら収まりもよいけれど、真実はもっと緩い。ダジャレは歴史を滅ぼす。それだけのこと。