夜王を倒した夜回り先生は、教鞭を置いて去っていった(完)

原作・水谷修、画・土田世紀のマンガ『夜回り先生』を読む。夜回り先生が伝えたいことと土田の表現のレンジが1ナノの狂いもなく合致していて、まるで小西康陽が野宮真貴のために作った楽曲のよう。夜回り先生が先か土田世紀が先か。夜回り先が先生か土田先が世紀か。文章がショートするほどに、二つの世界は混沌を極めているのである。
土田の描くマンガは悪い星の下に生まれた者たちが虐げられ、最後は為政者どもに拳を振り上げたり一発食らわす(文字通りただ殴る)のがカタルシスなわけだが、この作品はまた一味違う。単行本の場合、短編が終結したところで夜回り先生からのメッセージ「夜回りコラム」が挿入されるのだ。しかもなぜか内容はマンガの筋を改めて反芻するという、10対0の勝ち試合で松中が放つようなダメ押し弾。いるんだろうかこれ。土田の画からにじみ出てくる色彩、不遇・差別・挫折をこれでもかと塗りたくたった後にニスかぶせちゃった感じ。でもこれでいいんだよ。生きてていいんだよ。
ちなみに表紙だけを見ると「野田社長物語?」と思うかもしれない。しかし本を開けばそれが誤解だと気づくはずだ。そう、髪がフサフサしていた頃の夜回り先生は野田社長ではなく、ロッテの小宮山にそっくりなのだから――なにこの中身ゼロの終わり方。夜回り先生、こんな僕も生きてていいですか。