一週間ばかり被災地に行ってきた。私のような人間が柄にもなくボランティアに参加してきたのである。
なんでそんなことをしたのかといえば、「僕たちにできることは平常心でいること。今までと同じ日常を過ごそうよ!」という風潮にいい加減うんざりしたからだ。酒飲み行って、テレビ見て、妻の目を盗んで自慰しているうち、「いやいやいや、日常過ごしても何も偉くないだろ!」と突然気がつき、手元に寄せようとしていたティッシュ箱を壁に叩きつけていた。悟るのに2ヶ月もかかった。
そして被災地をどうしても見たかった。でも車で徘徊してカメラのシャッターを切る「観光」には抵抗がある。じゃあボランティアで行くしかないんじゃないか。そんなアイディアが脳をかすめると、俗物なものだから「ボランティアから帰ってきたら、周囲からいい感じで見られちゃうんじゃないの?」という妄想が止まらなくなり、勢いで都民ボランティアに申し込んでしまった次第だ。
はたして私は陸前高田気仙沼で瓦礫を撤去したり、救援物資を仕分けしたり、避難所で手伝いをしたりした。現地の傷跡――特に陸前高田はすさまじくて、荒野のような中心地に佇むと、何も言葉が出てこなかった。何かできればと思って乗り込んだが、圧倒的な震災の前に私はほとんど無力だった。
しかし無力感に苛まれながらも、心が黒く塗りつぶされることはなかった。というのもやってみて初めて分かったが、ボランティアはおそろしく気持ちがいいのだ。今まで私はボランティアを見ていて、なんで無償で人のために仕事できるのか不思議だった。でも実際やってみると「ああ。今の俺、人のために働いてるよ。しかも見返り求めないで・・・。俺ってすげー!」と感じる愉楽は相当なものがある。募金の3倍、ツイッターによる情報拡散の3千倍、「頑張ろう日本」と思考停止で唱えることの3万倍はうっとりできる。
今まで私は人のために尽くせる「あっち側」の人がボランティアをするものだと思っていたが、今回、都民ボランティアに参加していたのは、自分を満足させたい一般人も少なくなかった気がする。学生、無職、フリーター、自営業、デザイナー、美容師、とび職、芸人(本当に参加していた)・・・。特別に正義感が強いというより、現状への違和感を原動力に働いている様子だった。
さてこのブログの読者の7割を占めるであろう、何の役にも立たない精神的無職のお笑いオタクたち(少なくとも私はそういう人のために手間ひまかけて文章を書いている)に私は本気で言いたい。こんなチャンスはめったにないぞと。今度はおまえらが行けよと。ボランティアが善行だと考えるから、恥ずかしくて気分が乗らないのだ。ボランティアは修行である。ボランティアは禊である。そして何よりボランティアは自分を気持ちよくさせる、TENGAのような魔法の装置である。
こんなことを書くと、「おまえは自己満足のために被災地に向かうのか」と腹を立てる人がいるかもしれない。でも現地に行って作業するのなら、動機なんて今は二の次じゃねーか。私は自分に酔いしれながら庭に散らばった木材をかついだ。側溝の泥出しをした。救援物資を運んだ。それは全体の復興から見ればほとんど無力だったが、少なくとも無ではなかった。たぶんだけど。こういう慎ましい感慨が、また私を気持ちよくさせる。