エアギターのコンピアルバムを買っても寒空はだかの歌しか聞こえない

ダイノジ・おおちがエアギター世界大会で優勝した。この古橋広之進以来の日本の快挙について、糸井重里がサイトで感想を寄せている。「このようにしょうもないことで、沸きおこる興奮、国際大会の意味を無にするような虚しい競技」云々。長文のテーマはまた別にあり、この一節も批判や皮肉というには曖昧模糊な部分があるのだが、好意的な感情を持っていないことは確かだ。
なぜ糸井がこんなミクロな話題に攻撃的になっているのか。その理由として、私は「エアギター世界大会の存在をよく知らず、お祭りに参加できなかった苛立ち」を勝手に想像する。それも一般参加者ではなく、テキ屋が「一枚噛んでりゃ一儲けできたのに」と悔しがる感情の類の。
堀江貴史は自著で「糸井重里みたいな人物になりたい」と綴っていた。いわく「あの人はものを作るのではなく、ものを動かすことでお金を生み出してるから」(ブックオフに持っていたその本は価格がつかず受取拒否されたので手元にあるはずなのだが、探すのが面倒なので詳細は失念)。同感である。堀江も鋭いことを言う。まだ拘置所にいるなら、あの本を見つけて差し入れしてあげよう。
私からしたら、空気を押したりかき混ぜたりすることが仕事とでも言うべき糸井が、エアギターに関心を寄せていないことの方が不思議。それこそエアギターという”実存がないスタイル”で世界制覇した無意味な偉業に対して、嫉妬を抱いてると考えたらずっと合点がいくではないか。でも糸井のことだから発言が忘れかけた頃、エアギターにも食いついてくると思う。もちろんギター職人ではなく、エアギターのローディーとして。