鈴木私論

komecheese2007-08-28

いま私が読んでいてもっとも得体の知れない感情にとらわれるのが、キングコング・西野のブログである。そのタイトル「西野公論」からして既に100点なのだが、達観風の文章で「芸人はカッコいい職業なんです」「僕はもっとオモロい人間になりたいんです」「いくら頑張っても絵本が書き終わりません」と頻繁に宣言を受けるたび、「これは何のつもりで書いてるのか? というよりこれを読んでいる俺って一体誰なの?」と実存的不安までが掻きたてられるのだった。
「西野公論」が放つ謎の匂いがどこから生まれるのか、他芸人のブログと比較するとおぼろげに輪郭は見えてくる。たとえばダイノジ・大谷のブログは”発露”である。他人から褒められたいエネルギーが増大なあまり、それが日常生活の膜すらを破って文章からも漏れてくる。品川庄司・品川のブログは”陽動”だ。愛されたい・褒められたいという願望よりも、支持率や高感度の上昇を優先した緻密な広報活動。そして西野は”自己愛”ではないのか。もう他者の評価なんかどうでもよくて、自分が自分を称えて叱咤激励し、やがて自己愛の輪が閉じて完結した世界。「西野公論」を読んで抱くのは、綿密に書き込まれた他人の日記を盗み読みした時の感情に近い。それもそこから罪悪感だけを引いて、何ともいえないおぞましさだけが残ったような。
これだけ書いただけで「西野公論」の奥行きやエグみを説明したとは思えない。ただこの独演会のポスターに西野の自我や志向、方向性が全て詰め込まれているはずだ。刀の代わりにマイクを持っているユーモアにはそれほど注目しなくてよい。一番重要なのは、睨んでいるのが敵なのか鏡なのかということなのだから。