本当のアズマックスは東幹久

昨年から長年の封印を解いて『ものまねバトル』を見ている。別に『ものまねバトル』に特別な感情があったわけではない。私は「ものまね」そのものに長らく不信を抱いていたのだ。
振り返れば、もともと私はフジテレビの『ものまね王座決定戦』が好きすぎる少年だった。ものまね四天王時代なんて、コロッケが勝った、栗田貫一が負けたに真剣に一喜一憂していて、もう少し少年法が厳しければ検挙されてもおかしくない危険な人格だった。しかし清水アキラが涙の優勝を飾った頃から真剣勝負の緩みを肌で感じはじめ、やがてひとつの事件が私の愛に冷水をぶっかけることになる。
某大会の第一回戦、当時売り出し中だった松村邦洋が得意ネタである金八先生の登場人物メドレーで挑んだ。対戦相手はピンクの電話。もちろん普段ものまねをしない彼女たちは「これも仕事のうち」とばかり、ただキリンのかぶりものをして「これキリン、これキリンですか〜」と『横須賀ストーリー』をただ一所懸命に歌った。そして軍配は何事もなかったかのようにピンクの電話にあがった。
理不尽な展開に私は激怒した。なんなら目に涙を浮かべていたかもしれない。「もうやめだ」。ちょうどその頃はお気に入りのケント・フリック(プラトーンのものまねをする例の外人)の負けがこんだり、マリリン・モンローと称してお色気の膂力だけで勝ち上がるCCガールズに対しフラストレーションが最高潮に溜まっていた時期。私は顔をくしゃくしゃにして画面に叫んだ。「もうものまね番組なんか見ないぞ」。針すなおの描いた似顔絵がにじんで見えた。
このような近現代史を代表する純情を経て私はものまね番組を見なくなり、早十数年が過ぎた。それが今頃になって『ものまねバトル』を解禁。冷静になってみれば、現在の布陣はコロッケを別格として、神奈月、イジリー岡田、はなわ、有吉弘行という、モノマネを言い訳にただ悪ふざけに励む大人たちが勢ぞろいする楽園だ。見逃す理由は何ひとつない。
さらにこの番組のすごいのはコージー富田、西尾夕紀など実力派を揃える一方で、全然似てないSMAP軍団やダンシング谷村新司といった反則芸人の投下に余念がないことである。本格派〜異端を並べて番組の振り幅を広げるのが本来の意図なのだろうが、結果としては”振り幅”という横の広がりではなく、ただ”高低差”が拡大しているだけ。そしてその素晴らしさにとどめの一撃をくわえるのが Take2である。
きっと私が見ていない時もすごかったのだろう。もちろん新春特番もすごかった。中央で分かれる富士山のぬいぐるみの右半分に東が入り、左半分には深沢が入って顔を覗かせている。そして「世界でひとつだけの花」のメロディが流れ出すと、「♪No.1にならなくてもいい。もともと特別な富士山」と歌いだし、その後は静岡側の富士山と山梨側の富士山がケンカするコントに。私は思った。「これはものまねじゃねえ」。神奈月やイジリーがモノマネを盾に大衆へ突っ込んでいくとするなら、パンツ一枚でペルシア軍に突入するようなストロングハート。ただしそこに昔のような憤怒はない。あの時はかぶりもの芸に対して視聴者が同時に抱いた「これはものまねじゃねえ」という気持ちは、審査員による不可解な得票によって無念にもかき消された。しかしTake2の場合、視聴者、審査員、そして演じる当人たちの「これはものまねじゃねえ」の思いはまったく一致。三辺はキレイな正三角形を描いている。
つまりさきほどの高低差で言うならば、高すぎて安定しない塔の重心を下げるため、足場にいろんな芸人を配置し、最後はTake2が人柱に。二人で足りないなら、郷ひろみのそっくりさん・竹原ひろみを追加してもいい。近年、ものまね番組は「お涙頂戴」だの「ビジーフォーのものまねを歌が上手いだけで賞賛」だの、明らかに血迷っていた。この状況に怒ったものまね神に対し、業界が団結して捧げた供物がTake2ではないかと思うのだ。荒ぶる海を鎮めるため、村で一番悪い子を突き落とすみたいな。そんな風習ないけど。
あのお遊戯にも本ネタにもまだコンビが解散していない告知にも見える出し物がコントを超越した供物であるなら、今度は同じ局で放送しているエンタの方の神様にも一度添えてほしい。でもあそこの神様は鎮まらないかも。怒るんじゃなくて結構喜びそうな気がするから。